他人を見下す若者たち

他人を見下す若者たち (講談社現代新書)

他人を見下す若者たち (講談社現代新書)

最近、他人を見下す傾向が強くなったw、と思ったので購入。

他人を見下すケースは筆者によると2種類合って、一種類目は自分に自身があり、かつ他者を見下すケース、もう一種類は自分に自身がなく、他者を見下すことによって自分の精神的安定を保とうとする人。

筆者は、現代若者の間に後者のケースが増えていると警鐘を鳴らしている。

ケータイやPCの普及などのITの進歩や、日本の景気の変移などの時代の変化を理由に、現代人の感情の感じ方、自信の持ち方が変わり、その結果、他人を見下す人たちが増えている。
そして、時代の変化の影響を一番受けるのは若者であるので、若者の中に、他人を見下す若者たちが増えて、筆者は説明する。

言いたいことはなんとなく分かりますが、大した主張をじゃないことをダラダラ述べてる感じ。
(これが他人を見下す若者なのの意見なのかもしれないw)
感情という客観的には計りにくいものをがんばって何とか測定しようと奮闘していたが、データも母数が少ない調査だったりでそこまで客観的ではない印象を受けました。
まあ、主張は一般人の感覚とあまり違わないと思いますが。

今そして未来

来学期から学科が決まり、専門が始まる。そして今その専門は決まっていない。

最近は他大より長い休みを有効に活用できず、惰性的生活で時間を垂れ流している。

人間に与えられた時間という資源は、機会の平等を追求したものであり、生かすも殺すも自分次第。結果の平等は全く保証されていない。

今を楽しむ心は重要である。ただ、今に満足してはいけない。
楽しむことと満足することはイコールでは結ばれない。

常に上を見て生きていかなければならない。
みていないところには到達できない。

ヒルズな人たち

ヒルズな人たち―IT業界ビックリ紳士録

ヒルズな人たち―IT業界ビックリ紳士録

ネットベンチャーで成功し、現代ニューリッチの象徴、六本木ヒルズにすむ人たちの半生をつづったもの。

ライブドア元社長の堀江さんや、楽天の三木谷さん、ソフトバンクの孫さんなどをはじめとする日本のネット産業を支えてきた人たちの物語。


一様にヒルズ族といっても、経営スタイルや人生観はそれぞれである。銀行出身の三木谷さんと、学生起業をはたした堀江さんの考え方の違いは興味深かった。

ヒルズ族の半生が分かると同時に、日本のネット産業の歴史も分かって面白かった。

ネットの力ってすごい

昨日、『ウェブ時代をゆく』のことを書いたら、著者の梅田さんからはてなスターをいただいてしまった!!

一大学生が本を読んで、その感想を言ったら、著者がそれを聞いてくれる。そんなの昔は絶対にありえなかった。これがweb2.0ってやつでしょうか。ネットによる個人の力の増幅なんでしょうか。

それにしても、感動しますね。

自分の本に対するいろいろな意見を集めようとする梅田さんの姿勢尊敬しますね。

スターをつけてくれたところも、身をもって、ネットのすごさを知らしめてくれているようで、さすがです。

もっと梅田さんの本を読んでみようと思いました。梅田さんにこういう思惑があったら、大成功ですね。笑

『ウェブ時代をゆく』

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

ウェブ時代をゆく』読みました。梅田がネットによる社会の変遷を語ったのが『ウェブ進化論』。『ウェブ時代をゆく』では、そうした換わり行く社会の中で、個人がどういう生き方をしていったらいいのかを語った本。

「学習の高速道路と大渋滞」渋滞の先を進むのか、けものみちを行くのか。

個人的には四章の「ロールモデル思考法」というのが興味深かった。これからの時代、自分の好きなことに没頭し、時間を多く裂いてきた人が、その道のトップとなると、著者は主張する。その好きなものを見つけるためのものが、ロールモデル思考法である。

ある対象にたいする憧れという自分の直感を捉え、対象の性質を分解し、どの性質に憧れを抱いているかを分析することで、自分のやりたいことを見つけていく。また、ロールモデルは1つではなく、いくつももっていいし持つべきだと、著者はいう。

古い時代の思考にとらわれず、新しい思考を恐れない、時代の節目ではそういった人たちが、サバイバルを勝ち抜き、人生を楽しんできたのだ。

英語を使えないと、世界に取り残される

今、『ウェブ進化論』で有名な梅田望夫さんの『ウェブ時代をゆく』を読んでます。(感想はまたあとで)
ネットはその本質のパブリック、オープン、フリーという性質ゆえ、個の力を強める。この力とはいろいろなものが考えられるが、ここで梅田さんが取り上げていた、学習という面をとりあげてみる。

ネットにより、学習は高速化され、誰しも一定のレベルまでは、ネット以前は考えられないスピードで習得できるようになった。ネットはパブリック、オープン、フリーゆえ、誰もがその恩恵を受けられる。
しかし、そう簡単でない、現存のネットは大多数が英語。数で考えなくても、最新の論文などが英語で発表されることを考えれば、ネットにおいて英語がプレゼンスを閉めているのはあきらかだ。

誰しもがネットによって一定のレベルまで、学習を高速で進行し、勝負はそれから、という時代であるのに、英語が使えなければ、その一定のレベルまでも到達できない。つまり、英語リテラシーのない人は、スタート地点にも立てないということだ。

これは梅田さんも『ウェブ時代をゆく』の中で、一定の危惧は示していたが、俺は梅田さんの警鐘の程度以上の怖さを感じた。

『フラット化する社会』でも、ネットなどの力により、世界はフラット化する、という趣旨のものが書かれていたが、その波に乗るには英語が必要なのではないか。

このままだと、英語が使えない多くの日本人は、フラット化した世界を一段下から見上げることになるのだろう。